生きのびた記録

日記と雑記と読書記録

生きのびた日記(2024年2月29日)

荷物が重い。背中のリュックにパソコンを二つと満たんの魔法瓶を入れたからだ。腕には人にあげようと買ったクッションがかかえられている。これはそんなに重くないけれど、上半身全体が覆われるくらい嵩張っている。身体の前後のバランスがうまくとれなくて、帰宅ラッシュの電車内では身動きを取るのも一苦労だ。

夏休み前、登校する最終日に荷物を大量に抱えて帰宅する小学生ってこんな感じなのだろうかと思う。しかし、実は夏休み前の大荷物、というのを経験したことがない。だいたいいつも、夏休みの2週間前くらいから少しずつ持ち帰っていた。終業式の日はもう持ち帰るものが何もなくて、カバンにはその日配られたプリント数枚しか入れていなかった。

今考えると、あれは自分のためというよりも「いい子」たらんとして躍起になってしていたことだったのだろう。周りの大人から「計画的でえらいね」と言われたくて、誰にも見られていないときにも、一生懸命「いい子」のように振る舞う。大人と喋るときにはそういう自分を遠回りに自慢して、「いい子だね」を引き出そうとしていた。

その後大人の目がなくなっても、大人として働いていても、どこかで「えらいね」を期待している自分がいる。さすがにパソコンを抱えている今はそう思わないが、仕事をしているときなどにはいつも、頭のどこかに「褒められたい」「いい子って言われたい」という思いがある。

愛されない幼少期を送ったわけではない。むしろこれでもかというくらいの愛情を浴びて育ってきた。それでも「こう」なっているのは、やはりどこかでなにか、認識のボタンを掛け違えているからなのだろうか。

しかしわからない。どうボタンを掛け違えているのか、そもそもどこについているボタンなのか。わかるのは、そのせいで生活の居心地がとにかく悪いということだけだ。

ため息をついて荷物を抱え直す。とにかく今は家に帰ろう。

生きのびた日記(2024年2月28日)

夕飯のあとに、縫い物をした。手を動かすのは楽しい。動かした軌跡が縫い物として目の前に現れてくると、自意識と身体の動きと現実とがきちんと結びつけられる。ゆらゆらと漂って掴みどころのなかった身体感覚がチューニングされて実体を得る。現実世界に存在するものとして形作られ、そういえばおれは生きている人間だった、と思い出す。

一日1人でいると、生きた心地がしない。それは自分しか自分を認識する人間がいないから。自分と、自分を認識している自分、その境があいまいになって、自分が存在しているのか溶けているのかわからなくなる。1人でいる時間が長くなればなるほど、自分が人間ではない何ものかへと変容していくような気がする。

 

いや、もともと人間ではなかったのかもしれない。ぬめりとした、あまり陽の当たらないところに棲んでいたいきものが、ひょんなことから人間のかたちを得たんだろう。そして人間として生活しているうちに、だんだんと人間としてのアイデンティティが優勢になりそれまでの自己を忘れていた。そしていま1人になって、いきものに戻ろうとしている。それだけの話なのかもしれない。

 

こんなふうに変に想像力が働くことなんてなかった。おれは人間だと思いたいし、人間でいたい。やはりおれは1人でいるのは性に合わないようだ。

生きのびた日記(2024年2月26日)

電話でカウンセリングを受ける。それは話を聞くだけのサービスで、具体的に職場に対してアクションを何か取ってくれるわけではないようだった。弱っているときには過剰に周りに期待をして、それが少しでも叶わないととてもがっかりしてしまう。このカウンセリングに対しても、「なんとかしてくれるだろう」とめちゃくちゃ期待していたばかりに、もう異様なほどがっかりしてしまった。

夜、家族が家に来る。食べ物を買い込んできてくれたので、一緒に食べる。家に自分以外に人がいるというだけで、身体があたたかい膜で包まれているかのような安心感があった。

生きのびた日記(2024年2月25日)

家族とコンサートに行く。終わったあと、家族はコンサートに来ていた友達とおしゃべりしたいとのことで別れた。別れた瞬間涙がぶわっとでてきて止まらなくて困った。そのまま帰って、もうなにもしたくなくて、着替えて、泣きながら布団に入って、読まれるかどうかもわからない、苦しいことを訴える手紙を書いた。タイムラインを眺めること、ぼんやりと配信を観ることしかできなくて、自分はなにもできない、と目から水をだらだらと垂れ流していた。

夜、オンラインのイベントがあったので参加する。でも、何を聞いても何を話してもすべて頭の中で自分の苦しみに回収されてしまう。他の人を尊重できない。ひどい人間になってしまったものだと呆れる。

認知の歪み具合がすさまじいんだが、どうやったら抜け出せるのかわからない。一人で抜け出せる気がしないけど、助けを求めてもいいのかわからない。動けない。ずっとこのままなのかなと思って、またぼろぼろ泣く。

何も自分のケアをしないで眠った。

生きのびた日記(2024年2月23日)

朝ごはん食べて、洗濯をして、干す。乾かないことにイラついて、部屋干し用のサーキュレーターをググり、そのうちサーキュレーターよか衣類乾燥除湿機がよいのではないかという結論に至り、昨日給料が入っていたので至った勢いでエイっと購入した。書類をあっちゃらこっちゃらしていると昼になったので朝と同じ飯を食う。同じ飯をもう3回は食べている。

ぼんやりしていたら14時になったんで外に出る。本屋さんの展示を見て、展示をしていた人としゃべった。人と話せてとても嬉しい。展示されていたおみくじをひいたら、よい感じのおみくじで、年始に浅草寺で「わるい」とされるやつをひいた身としては思わずウキウキしてしまうのだった。

おみくじってぜんぜん信じてなくて、エンタメというかお祭りの射的みたいなアトラクションだと思ってるのだけど、それでも「よい」とされるほうがでると気分が良くなる。

生きのびた日記(2024年2月20日)

仕事。昨日から頬と耳たぶにぶつぶつ湿疹が出ている。おそらく花粉とかアレルギーに由来するやつなんだと思うが、痒くて熱くてうっとうしい。先日ステロイドが入っている軟膏を家族に教えてもらったんで、それを買ってべたべたとつける。軟膏を塗っていると、なんとなく幼いこどもになったような気持ちになる。冬になると家族は小さいおれの顔にオロナインをべったべた塗って保湿してくれていた。軟膏を塗るとあの時のオロナインの匂いがふわっとただよう気がする。