生きのびた記録

日記と雑記と読書記録

生きのびた日記(2024年2月18日)

起きたら8時過ぎだった。スープとおかずをあっためて食べて着替えて外に出る。勉強して、いっこメールして、パソコンをぽちぽちして、お昼ご飯食べて、またぽちぽちしてたら15時。こないだ申請してたパスポートを取りに行く。

パスポートを待ちながら、さっき会った人との会話を思い出している。仕事何やってるんだっけ、と聞かれて、これこれこういう仕事です、あーでも仕事辞めたいんですよね、とか唐突に軽ーく言ってしまって、相手がびっくりしていて、それきり話が終わってしまった。なんで辞めたいとか言うかな、と反省して、その反省をさらに咀嚼して、さらに落ち込んでいる。

でも辞めたいのは事実で、というか職場環境、在宅勤務がもうほんと、とにかく合わない。家にいたら毎日気持ちが暗くなるばっかりだし光熱費はかかるし水道代もかかる。外に出たい。人と会いたい。1人でいてもろくなことにならない。

何か作りだす仕事がしたい。たいそうなものではないけど目に見えるなにかを作りたい。デザインをしたい。絵を描きたい。文章を書きたい。デザインも絵も文章も、なんもやったことないし実績とかないけど、それなりのものはできるんじゃないか、みたいなフワフワした確信がある。そういう確信で動くのは危ないんじゃないかとか、もっとよく考えろよとか思うけど、思うけど、作りたいから仕方がない。作ることについて悩みたい。もうこれ以上、自意識でうじゃうじゃしながら1人で家の中でぐったりしながらパソコンとにらめっこしたくない。人としゃべりたい。人とものをつくりたい。人とものをつくって、いっしょによろこびたい。そんで、またつぎがんばろうね、とか言って、そういうことで、ああ、いきてる、って思いたい。いまは、いきてるかどうかもわからない。なのに、常に、ああこんな生活が続くのはつらい、もうぜんぶ終わりにしたい、人生から降りてなくなりたい、とか思っている。しかし降りる勇気がなくて、だらだらと不安としんどさの中にいる。いつでも出られるはずの洞窟のなかにずっといる。

おれは、わたしは、じぶんは、いつか明るいほうにいけるんだろうか。

生きのびた日記(2024年2月17日)

人と会って、1人になったら途端に寂しくなって、涙が出そうになるんで、本を開いて読む。身の回りを整えれば満たされるかもと思っていたけれど、整えても寂しさはあんまり変わらなくて、暮らしやすくはなったけど、なにかをうめることにはならなかった。

家に帰りたい。実家にはすぐ帰れるけど、頭の中で、あそこはもう別の家、みたくなっているんで多分帰ってもなんだか居心地は悪い。いや、居心地はいいんだけど、そこにいたら頭の中が凝り固まって動けなくなるだろうなという気がする。ので実家からは離れなきゃと思う。いまのところ、1人で住んでいる家で「家だ」と思えるのは布団の上だから、まずは布団まで帰らねばならぬ。

生きのびた日記(2024年2月12日)

ここ数日、人と会わなさすぎて、そして会っても表面的なやりとりしかできなくて、限界を迎えて、ことあるごとに1人で訳もなくぼろぼろ泣いていた。

孤独は思考を蝕む。人と会ったり喋ったりするときには落ち着いてものを考えられるのに、1人になると途端に根拠もなく自分を叱責し始め、頭の中がごちゃつき、なにも考えられなくなる。それは自分の特性、というか性分なのでしょうがない面もあるのだが、ぜんぶ自分が悪いんだろうか。自分を矯正すればなんとかなる話なんだろうか。

1人で仕事していると、自分はむなしさを感じる。自分のやっている仕事がしょぼくて無意味なものに思えてくる。心が強張り、それが身体全体にゆっくりと広がっていく。もう動けない、と思ったところでなにかが決壊して、気持ちが暴走して収拾がつかなくなっていく。そうすると泣くことしかできず、まともに生活はできなくなる。

なんかもう、どうしたらいいんだろう。

生きのびた日記(2024年2月5日)

新居で初めて夢を見た。正確には、見た夢を初めて覚えていた。よく会う友だちの人と、もう一生会わないだろう友だちだった人と、お出かけをしていた。笑って話していたので、たぶん楽しかったのだろう。起きた時に人恋しさでたまらなくなってしまったので、コワーキングスペースへ仕事をしにいく。喋ることはないけれど、人がいるところに行くだけでかなり気持ちが満たされる。雪が降ってきたのでスペースは早めに閉まることに。帰りにおでんだねのお店でおでんを買った。

やっぱり、人と会える場所で仕事がしたい。全く誰とも会わないで、出社もしないで働くのはつらすぎる。社会との隔絶を、ものすごく感じる。

生きのびた日記(2024年2月2日)

仕事を変えたい。けど何がしたいのか、やりたいことはなんなのかわからない。いまの仕事と仕事環境が自分に合っていない、ということだけはわかる。始めてみてわかったが、人と接しないこと、やったことが目に見えないことに、自分はどうしようもない寂しさを感じる性質らしい。

やりたいことを仕事にするのがいい、という呪いに囚われている気もする。だけど週40時間は拘束されているのだし、せっかくなら好きな場所で、あんまり「死にたい」とか、思わないでいられることをしたい。

仕事のこと、こうして何回も何回も考えているけど、自分がやったって、とか、断られたら、とか、去年転職したばかりなのにもう変えるのか、とか色々頭の中に浮かんできて、自信がどんどんなくなって、動けなくなる。

助けが欲しいけど、誰に助けを求めればいいのかわからない。沼の中にずぶずぶと沈んでいくようだ。

生きのびた日記(2024年2月1日)

広いベッドを手に入れた最大のよかったこと、かつ最大のこまったことは、寝床の居心地がとてもよいことだ。広々眠れるので、いつまでもふとんのなかにいたいと思えるし、いつまでもふとんから出られない。今日もちょっと寝坊しそうになった。

朝と昼休みに、少しだけ家の周りを歩いてみる。知らない場所、知らない人、知らない景色が目の前を連なって流れていく。こんなところで、ひとりで暮らしてるなんてまだ現実味がない。実は全部夢で、気がついたら実家でぐだぐだしていた、みたいなオチがつくんじゃないかと思う。

夕方、家族に会う。これまでだって仲良く、それなりの距離を持って接することができているつもりだったけれど、久しぶりに会ったら、家族の他人ぽさの度合いがより強まっていて、前より一緒に過ごすのが楽になっていた。一緒にいた時は気持ちを入れ込んだり自分と重ねたりすることが多かったけど、離れたらそんなことはなくなった。そのぶん、彼らによりやさしく接することができるし、いろんなことを話せるようになった。それに、彼らの愛情がどれほど大きいものだったのか、しかもその大きさを押し付けず端々に折り込んでいていたのかがわかった。彼らはとても、すごいことをしていたのだな。だから自分はここまで、自分の感性みたいなものをある程度信じて、生きのびてこられたのだろう。幸運だった。ほんとうに。

(一歩間違えると、親に感謝、みたいなベタなことを言い始めそうになるのでこれぐらいにしておこうと思う…)

生きのびた日記(2024年1月31日)

昨日、ずっと頭に引っかかっていたことを終わらせたので、心が大変に穏やか。仕事の昼休みにスーパーに買い物に行く。ハッと気がついたら凄まじい量を買っていて、多分3人分くらいの量で、帰りに坂道(家までには結構傾斜のきつい坂道がある)を登っていく時が修行のようだった。1人分の買い物ってどうやってするんだろう。前回も大量に買ってしまったのだが、全部何かしらの煮込みやら炒め物やら作り置きやらにして食べ続けて、気がついたら週の途中で使い切ってしまった。

共同親権の法案が通ってしまったり、群馬の森の朝鮮人追悼碑が強制撤去されてしまったり、裏金疑惑で検挙されたのが3人だけだったり、ガザではまた病院が襲撃されたり、ドラマで原作の方が尊重されず最悪の結果になってしまったり、落ち込むことばかりだ。そんなに人間の嫌な部分を見せてくるなよと思う。