生きのびた記録

日記と雑記と読書記録

生きのびた読書日記(11月27日〜12月3日)

2023年11月27日(月)

労働の感覚が午前中だけでぐわしと戻ってくる。昼ごはんを食べて外で本を読む。寒いが、コートとタートルネックで程よくあたたかく、陽の光はやさしい。鳩が用ありげに近寄ってきた。こんな良い日に労働せねばならないなんて、とうらめしく思いながら仕事に戻る。

自分のなかには決して豊かではないけれど言葉の水瓶があると思っている。それは平日になるとすぐにからからにかわいて、週末になれば少ないなりに満ちてくる。言葉が乏しくなると、おのれは言葉など持たないつまらない存在だ、という声が頭の中から聞こえてくる。

柿内正午『会社員の哲学』を読む。経営者の目線ではなくて、会社員の目線でものを考える、というのがしっくりくる。ビジネス書に対して、なんでそんなに偉そうに語れるんだ、という反抗心を常日頃から抱えていたのが、昇華されていく。

 

2023年11月28日(火)

海の近くに引っ越すことを考えている。心の中に引っ越す先の町があって、そこには絶えず少し湿った空気が流れていて、ほのあたたかい。その町のことを思い浮かべると、労働をしていても言葉の水瓶があまり乾かないようである。

コンクリートと電気に囲まれている場所で暮らすのは便利だが、人間として生きている感じが失われていく。

川上未映子『乳と卵』を読む。中学生の緑子は、ノートに女性の身体に対する嫌悪感を綴る。その背景には豊胸でいつまでも「おんな」であろうとする母、そして成長していく自分自身、両方への嫌悪がある。

自分はそれくらいの年代に緑子の感覚に似たものを持っていて、なんなら今でも持っている。自分の身体にある乳も卵も嫌悪し、排除したいと思う感覚。緑子とは嫌悪の根源は異なっているのだが、すう、と言葉が入ってきた。

 

2023年11月29日(水)

引越しのことで頭が占められている。

どんなところに住みたいかはもう決まっていて、準備もできそうな余裕もある。そしてそこに住めば自分にとてもよい変化が訪れるであろうことはわかっている。あとは動くだけなのだが、それができない。やらない理由ならいくつも出せるのだからさっさと動いてみればよいのだけれど、動くことに後ろめたさを感じたりする。自由にやっていいのか、自信が持てない。

 

2023年11月30日(木)

働き続けているとじわじわと出てくる、自己が縮こまっていく感覚が、今週もわたしを侵食し始めた。言葉の水瓶はもうからからに乾いた。

何もできない、どこにも行けない、何にもなれない、自分にはなんの能力もない、と自己否定の嵐が吹き荒れる。ただただ耐えるのに必死で、自分がどこまできているのか、どこへ行けるのか全くわからない。この時間もいつか美しいときだったと思い出せるのだろう、というぼんやりした確信だけがこの荒れた空の下のうっすらとした希望だ。いまはびょうびょう吹く風の中でぼろぼろ涙をこぼすことしかできない。

 

2023年12月1日(金)

涙がひいたのであとは動くだけだ、とばかりにいろいろと手を動かしてみた日だった。抱えていたいろんなことを他者に打ち明けた。相手は思いのほか受け入れてくれた。

他者に恐怖して、恐怖のあまり感情が決壊して、えいやと他者にぶつかってみて、そう怖くもないとわかる。ひたすらその繰り返しをし続けている。ずっとこの円環は続くのだろうか。続いているのが、若いということなのかもしれない。

 

2023年12月2日(土)

午前と午後で対照的な日だった。

午前中に話をした人は、違う場所にいても、見ているトーンが同じ人だった。話すと、見るものの違いがわかるけれど、それを楽しいと思える。心が安らかになり、満たされていき、1人ではないと思える。

午後に話をした人は、相手(わたし)をコントロールし、相手を自分より下の存在に位置付けようとする人だった。自分がいかに頑張っているかのアピールがそこここに入り込んできて、ゆっくり話すことができない。侵食され、削られる。一緒にいても遠く離れている。

本を買ったけれど、帰ったら眠くて何も手をつけないままに眠った。

 

2023年12月3日(日)

昨日あった人から受けた呪いが、身体に染み込んでいるのがわかる。動けない。ひどく眠い。眠いが、動かねばならないので、動く。

かとうひろみ『小さい本屋の小さい小説』を読む。12篇の小説を収録した短編集。語り口は至って平易かつからりとしているのだが、どの物語にも不穏さがただよう。ゆるゆると読んだ。「祈り」は、いやな体育祭の当日に雨が降るよう、教会で祈る話。結びが神話や昔話のようで謎めいていて、きつねにつままれたようだった。